7月8月と暑い日が続く今日この頃
体調不良からそのままなくなる方やその他の事情によりお葬式の声が多くなりました
特に知人として一般参列させていただくお通夜・お葬式が何件かありまして
今回は参加させていただいた式について思い巡らせた細々としたことを書き連ねようかと思います
参列しましたお葬式だけではありませんが、最近は自由葬というものが多く聞かれるようになりました
無宗教であるがゆえに、様々な宗教で執り行われるお葬式の形式をとらない新たなお葬式の形です
そのためか、参列した方もどのようにすればいいのかわからない箇所が少なからずあるようです
私も実際に数回参列させていただきましたが、そこで私は「難しさ」を感じました
無宗教であるために様々な形式を排し、よりシンプルに指揮を執り行う
ここだけ聞けば非常にわかりやすく思えるかもしれませんが、それはつまり今までの常識が通じないということです
仏式であれば念珠を手に拝むことになりますが、拝む仏は置かれていません
焼香がありますが、宗派不明で何のための焼香なのかわからないため皆各々の作法で行います
焼香と喪主の挨拶がほとんどを占めるのであまりにも早く終わってしまうので感慨に浸る暇もありません
良い悪いは置いておくとして、今までの式に慣れている人々にとっては悩むことが多くて集中しづらい人が出てくるのは当然のような気がします
私が一番「難しさ」を感じたのは、こういう細々とした不揃い感が式に集中しづらい状況を作っているけれど、その解決方法がほとんどないということです
数少ない解決方法がこの形式に慣れるということですが、ほかの宗教がある限りは難しそうです
自由葬と銘打っているのでそれでもいい気はします
一番は遺族の選択なので、遺族が納得できる形というのであればいいと思いますただ、一宗教者としてこれを考えてみると、そもそもお葬式とは何のために行うのかということを考えざるを得ません
お通夜、お葬式とは「故人のために行う式」だけではなく「遺された人のための式」という意味もあります
亡くなった人を偲ぶだけの場であったなら、もっと早い段階で一般葬の形がなくなっていたと思います
「人が亡くなった」という私たち自身にも大切なことを通して、遺された私たちが死をどうやって受け止めていくのかを考えていくことがお葬式を行う意味の一つであると思います
その中で宗教によって様々な教えを拠り所としてこれらを考えていくわけです
各宗教の教えについては触れませんが、その宗教の教えや考え方をもとに集中できる環境が整うことは同じだと思います
「故人に対する思い」「死について」、式に集中できるということはこれらをきちんと考え、自分の糧とすることができるということです
ただただ寂しい、悲しいという感情だけで終えるのは少しもったいないのではないでしょうか
自由葬という形式はこれからも多くなっていくと思います
その中で無くなっていくだろう「死について考える時間」というものをどう補完していくのか
人生を歩むうえで必ず迎える「死」について猶更考える機会を増やしていく必要を感じました
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